Saturday, March 6, 2010

私の中で消えていく進化論

私が学生の時、理科の勉強で進化論を学びました。 アメーバーがやがて、両生類になって、哺乳類になってサルになり、人間に進化するという事でした。

しかし、未だにその証拠がありません。 類人猿がいても良いのです。 また、犬と人間が交尾をすると、犬と人間の中間動物、犬人間が出来ても良いのですが出来ませんでした。 染色体が違うからです。 またそれは、種類が違うという事です。 もしそのような生物が出来ても、消えていきます。 今の時代に進化していない魚、シーラカンスがいます。 類人猿がいてもおかしくないのです。
その昔、レオポン(豹とライオン)という雑種が作られましたが、一代だけで子孫のよる繁殖が出来ませんでした。 何故でしょう? 明らかに子孫が違うからです。

進化論が正しいと仮定するならば、同じ祖先という事になってレオポンがどんどん繁殖するし、犬人間が出来るのです。 サルと人間は染色体が違いますから違う動物です。
実際は進化論がおかしいという事になるのですが、それが否定されると天地創造論が正しいという事になります。

それを信じたくない一部の人が一生懸命、進化論が正しいと言っている訳です。 人間には考える事の出来ない領域があるからです。 人間の頭で考えようとすると必ず、神は誰が作ったのかという人間の頭でしか考えられない所に発展します。 この世には人間の頭で考えられない事がたくさんあります。(宇宙の起源? 地球の核心は何? 人の起源? 病気の撲滅は? 明日の命は大丈夫? 地球の終わりはいつ?)

天地創造の神と人は違うのです。 聖書は言っています。(神の歴史、History
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1章1-3節)

もう一つ言いますと、地球の起源はどんどん古くなっています。
その昔、地球の歴史は数億年前といっていましたが、最近は50億年前と言っています。 どんどん古くなっています。 これはどういうことかと言いますと地球が出来る現在の確率は50億分の1の確率と言う事です。 という事は0.0000000002という確率しかありません。 限りなくゼロ、0に近い訳です。 これは統計学で考えれば、そういうことはないという事です。 本当にこの確率で、地球が出来、動物が出来、人が出来たのでしょうか? あなたはそれを信じていますか? 

この世の中では、この世は神が造ったという信仰と、自然に(偶然)出来たという信仰しかないのです。
天地創造の神を信じていない人は、この世は神が造ったのではないという信仰なのです。

聖書「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」 (ローマ10章17節)
天と地を造られた神、又お母さんを通し、あなたを造られた神に目を留めてみませんか?

Wednesday, March 3, 2010

安息日

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」 (出エジプト記20章8節)

私の生まれた家はきよめ教会でした。 私の祖母、松田きよが伝道師(牧師)で、祖母はよく病院伝道、牢屋伝道をしていました。 戦前からのホーリネスの群れでした。 しかし、ある時(再臨問題、イスラエル問題)から監督派と教授派に分かれました。 私の教会は監督派でした。 四大祷告をしていました。
 1、神の国のリバイバル
 2、イスラエルのため
 3.日本の救いのため
 4.キリストの教会のため

太平洋戦争では、日本は天皇の国家を作ろうとしていましたので、四大祷告の一つ、神の国が問題となり、そのお陰で聖職者は牢獄に捕らえられ、ある者は迫害され、牢獄死、ある者は生き残りました。 その迫害は太平洋戦争が終わるまで続きました。 その生き残りの一人、尾崎喬一先生がきよめ教会を再建されました。

そこからが判りません。 戦前は、きよめの群れは日曜日礼拝でしたが戦後、私が生まれた時には土曜日礼拝をしていました。

私は安息日が土曜日だと教えられて育ちました。 私が大学生の時、超教派でアシュラムという集会が持たれ、その集会に参加しました。 そこからほとんどの教会が日曜日礼拝をしていました。 アシュラムに参加された広島の中でもう一つの教会、サンビ教団が土曜日礼拝を守っていました。 私の父はクリスチャン経営者でしたから、父の経営する会社も土曜日を休みました。 現在のきよめ教会は日曜日礼拝をするようになったと聞いています。

私はアシュラムの集会で、家内(日本基督教団、流川教会員だった)と付き合いを始めて広島ホーリネス教会の礼拝に出席するようになりました。 ほとんどの教会が主の日を記念して日曜日礼拝をしていましたので、この点で私は大きく悩みました。 20年以上、土曜日礼拝をしているのに? ユダヤ人も土曜日を守っているのになぜ、日曜日礼拝なのだろう? 日曜日礼拝は、イエス様の弟子、ユダヤ人たちが守っており、キリスト教が広まってローマ帝国が国教をキリスト教に制定した時から世界中に広まったと言われています。
「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」 (使徒の働き20章7節)

今の私は、イエス様を中心にして生きる事にしています。 イエス様の復活を記念した日曜日にホノルルキリスト教会(ホーリネスの群れ)で礼拝をしています。


Monday, March 1, 2010

神さまに立ち返る

『イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 そうではない。わたしはあなたがたに言います。 あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。 そうではない。 わたしはあなたがたに言います。 あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」』   (ルカ13章2節)

南米チリで大きな地震がありました。 その家族の人たちが一刻も早く助けられるように祈っています。
イエス様は、このような災難や事件が起きた時の事を上のように言っています。
決して彼らが私よりも悪かったわけではありません。 私たちがこの事を通し、神さまの前に悔い改め(天地を造られた神さまを大事にする事を決心)をする事を求めておられるのです。

人は一人一人生きる目的があります。 神に似た姿、即ち愛によって生きるように一人一人を造られました。 自分の意思を持って神のように生きる命を与えられました。 良い事をする事も、悪い事をする事も自分の判断で出来ます。 ところが、そこにサタン、悪魔が入り、私たちが良い事が出来ないように誘惑しているのです。

それが人生のドラマです。 人間は一生懸命頑張りました。 しかし、どうしてもサタンの誘惑には勝てませんでした。 どのようにサタンと戦うのかを知りませんでした。 神さまはサタンの誘惑に負けている人間を救うために、イエス・キリストを救い主としてこの世の中に送って下さいました。
人は悪い事をすると必ず罰があります。 私も罰を受けなければいけない人間ですが、私の罰を身代わりになって死んでくださった方がイエス様です。

私の罪を背負って下さって、赦して下さり私の心の痛みを共にして下さったのが、イエス様でした。 今までは、私はサタンの誘惑に負けていましたが、イエス様の事を考えていると、不思議に罪を犯したくなくなるのです。 もうイエス様にあの十字架の痛みをさせたくないと思った時に不思議にサタンの誘惑に勝てるようになったのです。

私がイエス様を大事にするのは、決して良い行いをするためにはなく、彼が好きでたまらないからそのようになっているのです。確かに私はこれからも悪魔の誘惑に負けるかもしれません。 それでも私の事を赦し、愛して下さっている方を大事にしたいと思っているのです。 その人が私の中にいる限り、お付き合いをして生きます。


Friday, February 26, 2010

時間を共に生きる1

 教会へ行くと色々な人に会います。 そこで色々な人との交わりの時を与えられます。
 自分の友達や知人とだけ交わりをしていると、あまり不快感を感じませんが、初めての人となると色々な経験をします。 良い交わりの時もあれば、悪い時もありますが、その時を通らなければお互いの接点が見えてきません。
 心地よい交わりは、心に平安を与えますが、ギクシャクした交わりは色々な事を教えてくれます。 またそれは自分の成長につながります。

 この世の中には、自分に気の合う人もあれば合わない人もあります。 気の合わない人との交わりには、真ん中に壁があることが分かります。 その壁は自分が持っているものなのか? 相手の人が持っているのかを判断することに意義があります。
 自分が持っているものなら、何とかそれを見つけ出して取り除くことが大切です。

 人は若い事にその事を我慢というか、乗り越えることが出来ますが、年を取って来ると段々とその隠れていたものが表に出てきます。 人を傷付けます。

 結局、若い時にその訓練をしていなかったからです。 年を取ると今まで自分で行ってきたことが出来なくなって、人に色々な身の回りのことを頼まなくてはいけなくなります。 通常通りに生きるとしたら誰でもその道を通ります。 また、人の世話になる時は、自分の身の回りの人だけではなく、看護士や医者、医療従事者とも付き合わなくてはいけません。 ほとんど知らない人とのお付き合いが始まります。

 若い時に出来るだけ色々な人と付き合っていた人は、その辺の調整が出来ますが、そうでない人にとって病院、長期療養所は苦痛となります。

 その事がメインの事ではありませんが、大事なのは色々な人とお付き合いをすることです。 人は年を取るとそれに合わせ親戚、知人が減ってきます。 ある特定の人としか交わらない人は、老年になるととっても寂しい思いをします。

 しかし、教会は良い所です。 色々な人、年代の違う人と出合い自分の持っている問題が解決できるからです。 もっと素晴らしいのは、自分と気持ちが合わない人を通し、イエス様との交わりがもっと深まるからです。 また私はその人たちを通しイエス様の事をより深く、知ることが出来るからです。

 その知恵を下さるイエス様に感謝します。 その交わりにあなたも入れていただきませんか?


Saturday, February 20, 2010

文化の違いから

「あなたの父と母を敬え。 あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」 (出エジプト記20章12節)

 私達家族は、ハワイへ住んで20年以上が経っています。 そこで、色々な文化の違いを学びます。 ハワイには、日系人がたくさん住んでいます。 日系人といっても3世、4世といった方もたくさんおられます。 文化の違いから色々な問題に遭遇し、少しずつアメリカの文化が分かりかけて来たところです。
しかし、以前から住んでいる人たちにとって私たちはまだまだでしょうか、、、

 私が日本から来て間もない時は、一生懸命日本の文化を、考えを分かってくださいと周囲の人に対して一生懸命でした。 しかし、最近はアメリカ? ハワイ的な考えによって話をし、対応しなければ難しい事が分かってきました。 これが良いか悪いかは別として、生きるにはそのようにしなければならないようです。 70年ぐらい前でしたでしょうか? 日本が中国や韓国へ進出し、日本の文化、思想国家を海外に建設しようとしました。 満州国、同化政策というのがそうだと思います。 それらは失敗に終わりました。 やはり、中国人は中国人の文化で、韓国人は韓国人の文化です。

 ここハワイでは、日系人が住んでいますが、現在の日本から見た文化、思想は違ったものである事を痛感しています。 それでは、宣教という意味で考えるとどうなるのだろうかと思います。 日本の文化、思想を分かってくださいと、その考えを広げていくのか? 私たちが、出来るだけ彼らの文化、思想の違いを理解して話していくのか?
私は彼らと話をしていくうちに、だんだんとアメリカ的な文化、思想を学ぶことになります。

 日本では、同じような文化、思想を持っているので大まかな考え方を言えばそれで相手のことが理解できます。
 アメリカでは、様々な国の人々が住んでいますので、相手文化、思想の事を知って対応することは時間的にも難しい問題です。 私自身も中国、韓国、ヨーロッパの人とあまり接していないので、自分の意思を伝えることは難しく思っています。 問題が起きないようにするためには、具体的な説明というか、こうこうして欲しいと言わなければダメなのです。
 日本ではちょっと言い過ぎではないかという事を言わなければ相手に伝わらないようです。

 私は最近の日本がアメリカに近寄って来つつあるような気がします。 特に年代間の考えの違いは大きく、意思を伝えるには物事を具体的に説明しなければならないという状態に近づいているのではないかと思います。



Thursday, February 18, 2010

イエス様と恋愛

「あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。」 (ヨハネ5章42節/口語訳)

 私はクリスチャンのようになれませんという人の話を聞くことがあります。 人にはそれぞれクリスチャンという自分のイメージがありますが、そのイメージと自分のイメージが、かけ離れている時にはやはりそのようになると思います。
 ある人は、イエスさまを信じたら、しなければならない義務があると言います。 イエス様への愛がなかったら当然のことなのです。 その人はまだイエス様からの愛がどんなに素晴らしいものかを体験できていないかもしれません。

 それでは私はというと、イエス様からの愛を人にうまく伝えられないのです。 伝えられるようにイエス様との愛をもっと再確認する必要がありそうです。
 ただ、これは言えます。 私は家内と恋愛で結ばれましたが、恋愛中は彼女と会って、嬉しいし、彼女のために時間もお金も損だと思わないで、お付き合いをしたことがあります。 今その時の事を考えると単純で純粋な恋だったのだなと思い出されます。

 私はイエス様と恋愛している間は、時間もお金もあまり考えないで生きています。 ただ体や心が疲れますと、時間やお金の方に気をとられてしまいます。 年を取ってくるとそうなると思います。 また若い時は、体力と暗記力で複数の事を作業することが出来ますが、年を取る、又は疲れている時は体力が続かないし、しなければいけない事を忘れてしまいます。 あまり複数の作業が出来なくなってきます。
 そこで大事になるのが、イエス様と自分の関係です。 いったい自分は何が一番大切なのだろうかという事を真剣に考え始めます。 また嫌な事があると自分は一体何をしているのだろう? この嫌な事は乗り越えなければいけないのだろうかと悩みます。 そして自分なりの決断を下して、次の生活の糧としています。 自分を大切にしなければ次へ進めないのです。

 もし自分に嫌な事があってもそれをする力が与えられ、乗り越えることが出来るとしたら、イエス様からの愛を強く感じている時しか出来ないことを私は知っているのです。
 自分ながら、自分はなんとイエス様の馬鹿だねとしか言えません。 こんな損なことをして何の役に立つのだろうと?

「私たちは愛しています。 神がまず私たちを愛してくださったからです。」 (1ヨハネ4章19節)




Tuesday, February 16, 2010

霊によって

 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。 わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」 それからモーセは民のことばを主に告げた。 (出エジプト記19章9節)

 このみ言葉を聞いて実行しようと思う、自分が出てきます。 神さまよりも自分が出てくるのです。 また、モーセと接触した人達は、、、約束の地に入られたかというと、ダメでした。 何故でしょう?
 私はここがわからないのです。 何故かというと、人が人々を救いに導くのではなく、神さまが導かれるからです。 それでは自分は何をすればいいのだろうか?

 そこで一番大事なのは聖別です。 それは自分が決める事ではなく、自分が神さまの領域と人との領域をしっかりと知るという事です。 一体どこまでが自分の領域なのか?

 まず神さまに向かって一歩ずつ歩む事です。 神さまとの時間を大切にする事です。その中で自分に出来る所と出来ない領域を一歩ずつ学びます。
 その領域を大切にするというのが、聖別だと思います。 どちらかというと人は目に見える部分を大切にします。
 それがいつの間にか、聖別だという事を言いますし、そのように感じます。 しかし、本当は神さまと自分の交わりというか、お付き合いの中に神さまからの言葉があります。 それに従って生きれば良いのです。

 人との交わりが大きくなっても、行きつく所は人と人とのお付き合いなのです。 人とのお付き合いの時間が大切か? 神さまとのお付き合いが大切かと言う所につながってきます。 また私の一日に神さまとのお付き合いの時間があるかどうかという事にも関わってきます。 神さまとのお付き合いがしっかりしていれば、自然にキリストの香りが付いて来るのです。 どのような香りかどうかは、神様との交わりのがしっかりしていなければ出てこないのです。 また神さまとの交わりがあれば、自然と人との交わりが良くなってくるのです。

 約2000年前、選ばれたと思っていた大きなユダヤ人は倒れてしまいました。 しかし、各個人と神さまとの関係が続いているのです。
 神さまは、大きな集団ではなくて、各個人との交わり、お付き合いを大切にしているのです。 そこに気付く人が増える事を願っています。 

 そうしますと、どこの教会が良いとか、間違いだとかいう心配もなくなります。 大事なのは、そのような目に見える形よりも、主にある交わりを大切にする人々がいるという事なのです。  イエスさまとの交わりが広がりますように祈っています。