あわれみを学ぶ


医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9章12-13節)

 イエスさまと一緒に生活をしていると色々なことが起こります。 特に一般の人には意味不明なことが起こります。 意味不明な時には、自分の時間が損したように(いけにえの時間)感じます。 これは私を含め、全ての人の言えることだと思います。

 その時に大事な事は、あわれみだとイエスさまは言っています。不明な時間を
過ごしている時に、自分から出てくる思いは犠牲です。 その時に、いけにえの心が出てきますが、イエスさまは哀れみを学びなさいといっておられます。

 ココのところは大事だと思います。 良いことをしようと思っても、人には限界があります。 限界を知らなければどんどんと自己犠牲の時間が増えてきます。 イエスさまは自己犠牲を喜ばれないのです。

 哀れみの心があるのなら自己犠牲の心が無くなっていきます。 しかし、この心はイエスさまから与えられる心です。 私には哀れみの心があるからあなたもそのように思いなさいという訳にはいかないのです。

 聖書に次に起こった事は、信仰による癒しです。 いくら哀れみの心があっても、イエス様に癒していただこうという心が無ければ何も起こらないのです。 しかし、イエス様なら癒してくださるという信仰があるなら癒されるのです。

哀れみといけにえ、信仰と不信仰の間には大きな壁があるのです。 そこに人間の力が入る余地が無いのです。 人間にはその間を埋める事は出来ないことなのです。
 イエスさまを信じると聖霊、イエスさまの心が与えられます。 しかし聖霊と自分の心は一致していないことが多々あります。

 ここに人間の弱さがあるのです。私にはイエスさまの心があるから大丈夫だとかいう事にはならないのです。 イエスさまの傍にいることを学び、選んでいくしかないのです。
人を助ける事は出来ます。 その中で人の目にイエスさまが働かれる事が見えるのは聖霊と信仰の力によるのです。 それを何とか伝えていかなければいけにえの世界になるのです。 イエスさまは犠牲を喜ばれないのです。 クリスチャンは、その中に生かされているのです。 私のために信仰が成長できるように祈ってください。 またあなたのために祈っています。

Leave a Reply

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.