十字架と群集


 聖書では群集という言葉が良く出てきます。 人々は群集が好きです。 群衆の中にいれば自分は寂しくないと思っているからです。 人は群集に喜ばれる自分を演出します。 どうしたら群集に喜ばれるかをいつも考えて行動しますが、ダメなのです。 群集には色々な人があって、いつもまとめる事が出来ないからです。
 それをエンエンに続けていては自分を見失います。 群集はその時その時によって心理がコロコロ変わるからです。 群集に喜ばれようとすると良い自分を見てもらおうと邪魔なものを取り除けようとしますが、そこには救いがありません。

 イエスさまは群集を大事にはしておられませでした。 個人を大切に愛していました。 しかし、イエスさまの愛は自分が愛される事は考えておられませんでした。 いつも相手をどのように愛するのかを考えておられます。 特に、相手の問題点をタッチして、自分から立ち直れるように告げられたのでした。 強制的でなく、自発的に言えるように助けてあげられたのです。 これが本当の愛なのです。

 今回は群衆の中にいる二人の盲人です。 彼らはイエスさまが救い主とわかっていました。 それを言われると人間は喜んで、盲人を癒すでしょう。 しかし、イエスさまは意地悪のように聞こえる言葉で問われます。 「私に何をして欲しいのか。」と イエスさまは目を癒すだけでなく、口で告白する心を癒したいと待っておられたのです。  群集は二人の盲人はどうでも良かったのです。

 『「群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ(救い主の意味)。」と叫び立てた。 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」』(マタイ20章31-34節)

 二人の盲人たちは始め、目さえ癒されれば良いと思っていたかもしれません。 しかし、イエスさまが群衆と一緒に来られる音を聞いて、出来ることなら救い主をこの目で見たいと思ったのです。 その心がイエスさまに通じ、彼らの目を癒そうと決心されたのです。 二人の盲人は肉体の目が癒されただけでなく、イエスさまに付き従ったのです。 群衆の中には目が開いて、心底からイエスさまに従った者もいれば野次馬もいたのです。

 その後、イエスさまはロバの子に乗られてエルサレムに入場されますが、その前にイエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入場なされる事を500年以上も前に預言したのがゼカリヤという預言者でした。 この所から見てもイエスさまは聖書が預言されている救い主だとわかります。

「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9章9節)

 ロバの子の話はいつもしているので今回は別の話です。 ロバの子を見つけるのにイエスさまは二人の弟子をお遣わしになりました。 そして二人の弟子はイエスさまの言うとおりに行動しました。 二人は聖書の中にある御言葉の成就を見たし、お手伝いが出来て、聖書にその行動が記されました。 私もぜひ、イエスさまの御言葉に従って、聖書に記されたいと思うのです。 ぜひ、皆さんもイエスさまに従って、聖書に記されるようお祈りしています。

 悪い事でも、良い事でも全てはイエスさまの手の中にあります。

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