ぶどう園のたとえ


 マタイ21章の言っているぶどう園のたとえは、難解ですが、単純に考えてみればそれで良いのです。 信仰といっても行動が大切です。 その行動は、ぶどう園で働くということです。 そうすれば実を結ぶことが出来るということです。 何もしなくてはブドウの実が結べないということです。 またその裏には、神さまが使わした人、ヨハネを大事にしなかった事。

「あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21章28-31節)

 もう一つは、ぶどう園の持ち主の心を持っているかどうかということです。 ぶどう園で働くにはぶどう園のオーナーの心を知っていなくては、ぶどう園が誰のものであるのかわからなくなってイエスさまから盗んでしまうということです。

 クリスチャン同士の働き(罪人の集まり)を大事にすること、大事にしなかったらしまいにはイエス様までわからなくなって殺してしまう事があるということです。 イエスさまは救い主だとわかっているけれど、それを信じる人をおろそかにする事は神の国に入れないということだと、私は思うのです。 神を愛し、隣人を愛するというのはこういうことなのでしょう。 
 神さまの前に信仰が試されるのです。 その時、いつも見ていかないといけないのは、神の国の働き、神さまの心を大事にするということだけなのです。 人を愛し、神さまが与えてくださった家族を愛するということなのです。 全ての人、およびイエスさまを愛する人が救われるよう実を結ぶことが出来るよう、祈りあいましょう。

「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」(1テサロニケ5章9-11節) 

Leave a Reply

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.