小事に忠実であれ


 イエスさまの弟子訓練の最後は、徹底した弟子たちの心構えについて話されました。 世の終わりがあることと、その後にさばきがあることを示されました。 弟子たちが救われているとしたら、そのようなことは言わなくても良いのですが、イエスさまは最後の最後まで、弟子たちに心構えを教えられました。
 御国に入れる人というのは、私たちが決めるのではなく神さまが決められることなのです。 その中で、御国を受け継ぐという話をなさいました。 タラントの話にしても、山羊と羊の話にしてもクリスチャンに対してイエスさまは話されているという事はとっても大事なことですし、イエスさまの最後の弟子訓練の話でした。 その後は、イエスさまの十字架です。

 どちらも当てはまることは、小事に忠実であれという事に尽きると思います。 仕事の量が増えてくると大きな仕事をこなす事に心が奪われて小事のことが疎かになるということです。 その時には、あわれみの心、愛が無くなるといっています。 人は大きな仕事をし始めますとそちらの方に心が奪われ、小事のことが出来なくなるのです。
 タラントの話では小事に忠実であったから大事を任されます。 しかし、大事があるからといって小事を疎かに出来ないのです。 大きな事だけを大事にするというのは、パリサイ人たちが行っていることなのです。 小事か、大事かの仕事を与えるのは神さまです。 人は今までの観念から何が大事で、何が小事かを決めますが、イエスさまが下さる聖霊は違うのです。 その事実として、自分で意識していない助け、あわれみを人に施しているのです。 私はこれをしたあれをしたという事ではないようです。 そこには自分のしたいこととは違うことをしているということです。

 もうひとつ大事なのは思いをひとつにするということです。 神さまは一人ではなく、複数の人を用いられるということです。 またその思いが聖霊様を通して働かれるということです。 決して多数決ではないようです。 そこにはイエス様を一つにしようとする交わりがあるから出来るのです。 そこには誰の働きとか、誰のお陰と言う事は無いのです。 イエスさまが働かれておられるからです。 人は誰々の働きだということを表したいのですが、後ろに働かれているのはイエスさまなのです。 その事をはっきりと伝えられる人は幸いです。 ただ、人には成長と段階がありますので、急には変わりません。 手を入れて、イエス様にお願いしてちょっとづつ育てていくしかないのです。

 イエスさまが入っていれば大丈夫です。 時が来ると実を実らせることが出来るからです。 そのイエス様に対しての忠実さが人を育てていくのです。 どうか救い主、イエス様の内に真理が見出されますように、祈ります。

「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。 だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7章22-25節)

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