人としてのイエスさま


イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
』(マルコ7章18-24節)

マカプウ・トレール イエスさまは、この世に来て下さった。 それは神としてだけではなくて、人として私たちの悩み苦しみを体験するためでした。 み言葉を私たちに伝えるためでした。 み言葉を伝えるには、この世の中での体験、証しが私たちの心に入るためでした。

上のみ言葉は、人の心にある罪をしっかりとイエスさまはお示しになられました。 それはイエスさまご自身が体験されたことだからです。 イエスさまも人と同じように心の中に悪い思いが出てこられたのです。 それ故に、はっきりと人の心の中の罪に気付きそれを言い表すことがおできになられました。 しかし、イエスさまはきっと、完全に善い思いだけ持った方ではなかったようです。 ただ違うのはイエスさまは善い方を選ばれたと思いますが、それが上記のみ言葉です。 イエスさまはツロに入られた後に隠れたいと思われたという事です。

私はここの所でイエスさまは群集から、逃れて何かご自分のしたいことをなさりたかったと思っていましたが、それは、お祈りと弟子訓練ですが、それだけではないように感じたのです。

イエスさまは群集の中に伝えたいことがありましたが、その中にパリサイ人がいて、群集に向かって伝えたいことがはっきりと伝えられなかったのです。 それだけではなく、パリサイ人へのメッセージが群集へのメッセージにもなったのです。 結局、弟子たちも混乱してしまったのです。

本当にイエスさまの心を知ったのは弟子たちだけでした。 人間としての限界でした。 その限界を超えるものが、異邦人伝道でした。 イエスさまはユダヤ人伝道のためにこの世に遣わされましたが、ユダヤ人伝道への限界が近づいて来ました。 ユダヤ人全体への伝道の困難さが明らかになって来つつありました。
隠れたいイエスさま、しかし、これからイエスさまは、世界の人を救うために十字架の道をまっすぐに歩まれたのです。 イエスさまは人の弱さをはっきりと体験され、全ての人の苦しみをご存知でした。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章15-16節)

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