社会の救いと個人の救い


聖書の預言による社会の救い(宣教)と個人の救いが二つの流れがあるという事は本当に興味深い事です。

 神さまは天地を造られた御自身を伝えるために、ユダヤ人を通し聖書のお言葉を世界中の人々に下さった。 社会宣教はイスラエルから始まり、ヨーロッパ、アメリカ、東アジア、東南アジア、インド、中東という具合に東回りへと進んでいます。 西回りの宣教活動(シルクロード)もしたのですが、思った以上に進んでおらず、違う宗教として変化し。キリスト教ではなくて違う形で伝わっているのです。

 日本でいうと、日蓮宗(法華経)とか浄土真宗(他力本願)にその流れがあると私は思います。 即ち、難行苦行の修行から口で告白するものへと変化しているのです。 キリスト教では「口で告白し救われる」というみ言葉がありますが、それが法華経へ変化し、自力本願から、他力本願へと変化しているのです。 確かに、キリスト教の考え方とは違いがありますが、キリスト教の影響を受けたものと感じています。 これらはキリスト教としては伝えられてはいないのです。 

 その事をさておいて、キリスト教としてしっかりと伝えられたのは、まさに西回りで、日の出る方から栄光が現れるのです。 『主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。』(イザヤ59章19節)

 それだけではなく、ビジネスを通しイエスさまの宣教が伝わってくるようになされたのです。 しかし、世界に宣教活動が終わる頃、ビジネスも信仰も廃れて来るのです。
 なぜかというと人の力によらず、神の力が明らかになるためです。
『私が福音(イエスキリストのこと)を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。 もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。』(1コリント9章16-18節)

 人が自分の力を誇張し始めると聖書では「わざわい」が来るといっています。 私たちは単に、神さまからタラント(賜物)を預かっているだけです。 神さまからのギフトを自分の物としていくところに「わざわい」が来るのです。 その「わざわい」は国単位で起こります。

 ただ大事なのは、いくら国が衰えるとしても、個人の救いは決して無くならないのです。 人は一時的なものに惑わされないで永遠に続くものを大切にしていかなければ滅びなのです。 これを聖書ではSin(罪)と言っています。世の中の民事訴訟、道徳上の罪の事ではないのです。 父なる神、天地創造主、 神の御子イエス・キリストを知り、信じ、自分自身を知る事(聖霊と共に生きる)が求められているのです。 この事を三位一体の神といいます。 この中に私たちは生かされています。

 キリストを信じる教会では、三位一体の神をほめたたえ、礼拝しています。 どうかお近くの教会へ行って、救い主、イエス・キリストを見出してください。祈っています。
 キリストの宣教が世界を一周する時が迫っているからです。

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