聖書は歴史の書


 最近、聖書のみ言葉よりも愛が大事と訴える人が増えてきたようです。 愛を大事にし過ぎて聖書のみ言葉をおろそかにする事ほど、愚かなことはないのです。

 愛といっても、解釈は限りなくあります。 それを伝えるよりも、イエスさまの愛とイエスさまの言葉を大事にする事が大事です。 最近、間違った事を教え始めているのです。 何故なら、聖書を歴史の事実として解釈するよりも教えとして伝えようとしている事です。

聖書は下のように伝えています。
『このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。』(マルコ8章38節)

 近頃は、宗教と教育や政治と分けようとしているのです。 それは良い事です。 悪い事では無いのです。
 どの宗教も教えを大事にしているのですが、その教えが良いか悪いかの判断は後にならなければ解りません。 それをまだ起こる前から、良いとか悪いとかは判断出来ません。
しかし、聖書は歴史の事実を淡々と伝えているのですから、その判断が良いとか悪いとか言えないのです。 もう歴史の結果が出ています。 後は、私たちが聖書の事実を信じるか信じないかだけなのです。

 聖書で起こった出来事、奇跡が起こったのを信じるのか? どうか? その時、自分はどう考えるかを、はっきりと人前で伝えるべきです。 そこで大事な事は、何を信じているのかという事です。 この社会の状況を信じるのか? この世の中を造られた神がいるという聖書を信じるのかという事につながります。 自分自身に神のような力があることを信じるのか? それとも、この世の中を造られた神に力があることを信じるのでは大きく異なります。 私はこの世の中を造られた神、イエスさまが力があることを信じます。 そこで、聖書の事実を人々に伝えるのです。 そのために、聖書の事実はどうだったのか? 出来るだけ間違えないよう聖書を読み続けるのです。

 どうか現実問題と聖書の事実を分けないで下さい。 分けたくなるような事があったら、イエスさまに自分の弱い部分をはっきりと伝える事です。 そこを通らなければ、聖書の事実が見えてこないのです。 聖書を教えとだけしか受け取れないのです。

イエスさまの力を信じて歩きましょう。 またイエスさまの愛をしっかりと受け取らなければ、聖書の事実が受け取れないのです。 祈っています。

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