イエス様と生きる


 人は身体と心を持ち、神さまのように自由意志で生れます。 しかし、人は神さまとの関係を人類の初めである先祖、アダムとエバが罪を犯し離れてしまいました。 その子供達まで影響し神さまを忘れ、自分勝手に生きる人生を選んで生きるようになりました。 このままで生きる事を聖書では肉的な生活と言っています。

『イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」』(ヨハネ福音書3章5-6節)

 神の国というのは天国の意味で、父なる神さま、イエスさま、聖霊の心を持った人たちの事ですし、時間と生活を共有する場所で実際に存在する世界です。
 ところが、この世の知識、聖書知識、自分知っている事だけで人は判断してしまいます。 これでは、神の国を共用出来ないのです。 上のみ言葉は、聖書知識がたくさんあって、人格的にも素晴らしい人に向かってイエスさまが語られたみ言葉です。
 この人は神さまに近い所にありながら、イエスさまの言っている神の国が理解できませんでした。

 そのような人がこの世では増えつつあります。 聖書を自分の知識の一部として使っていたのです。 そのために、どんどんと自分が知らない事、わからない事を否定し始めていくのです。 挙句の果てに聖書は神の言葉ではないとか、間違っているから、そこは信じない方が良いと言っているのです。 どういう事かといいますと、神の言葉よりも、自分の言葉が正しいといい始めているのです。

 本当にそうでしょうか? 聖書は一人の人が書いたものではなく、色々な人が書いたものです。 その中で各個人、見たこと聞いたことが違うのですが、本質は同じです。
 それは、「チキン」という言葉から考えても明らかです。 鶏肉、チキンナゲット、鳥の足、食肉として連想する人もいるし、生き物を連想する人もいます。 各個人チキンの事を連想しているのですが、それぞれ違っているのです。
 人間はそういう見方をしますが、神様はそのような事はあまり大切では無いのです。 ただ、人間の考え方、見方の違いから不思議なことが起こるのです。 それは各個人の思い、見方の違いによって、同じ聖書なのに色々な解釈が出来ることに気が付きます。
 極端に自分を正しい人だとしなければ、どれも正解です。 それでは、聖書はいい加減な書物となるのでしょうか?

 それは違います。 イエスさまが下さる聖霊さまの働きによって聖書の矛盾と思えるところがピッタリと一致するのです。 それがイエスさまと生きることに繋がるのです。 生活している内に、その矛盾のように見えるところが生きた神の言葉となって私たちに現されるのです。 まさに奇跡であり、アメージングの世界です。 それは神の国に生きる人の特権なのです。 知っている人の特権でイエスさまと共に喜べる人達なのです。

『宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。』(ヨハネ福音書2章9節)

 私は決して、信じる人と信じない人を分けているのではありません。 それを決める人はあなた自身なのです。 ぜひ教会へ行って、自分の知らない世界がある事を味わってみてください。 求めるなら与えられます。

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