キリスト者


 『彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。』(使徒の働き11章23-26節)

 

このみ言葉だけを読むと順風満帆のように感じるけれど、実は生きるか死ぬかというような迫害の中、逆風の中で語られたみ言葉です。 そのように困難に思えるような時にも、神の恵みがあり、聖霊と信仰に満ちているので、どんどんとキリストの福音が伝えられて、キリスト者というグループに成っていった。 その中で人々は集まり、時間をかけ信じる者、成熟したクリスチャンと成った。 ここで分かる事は、自分からキリスト者と言わないでも、他人からつけられた名前と言うか、ニックネームでした。

 

その人たちは迫害という恐怖の中でも、聖霊と信仰の満ち足りた人にとっては、何の恐怖でもなかったという事です。 迫害や様々な問題以上に聖霊と信仰が上回っていたという事です。

 

人はこの世に生きていますが、問題が無い人などはいません。 全ての人が問題を持って生活をしていますが、それをものともせずイエスさまに対する姿勢を変えなかったという事です。 それだけでは人は弱いので、生きられません。 そこで、神の恵みとみなが心を固く保って、主に留まるという決意とをすると、主から励ましを受けたというのです。

 

今世界は何が起こるのか分からないという状態です。 災害はあるし、人の意見はバラバラ、争いは起き、何が本当なのか分からないのです。 その中で大事な事は、主の恵みに立つという事です。 誰一人として、迫害や災害や事故、争いに巻き込まれない人などいません。

 

私だけは、神様がいるから大丈夫という事はないのです。 それ以上に、恵みの中に生きている人には、恐れがないし、どんな困難な中でもイエスさまの中にあって揺るがない信仰を成長させていったのです。 恐れは信仰の妨げでもあり、隠す事をします。 そんな事は誰でも気が付きます。 そこには神さまはいません。

 

堂々とした生きる姿勢、そのような姿を人々はキリスト者、キリスト馬鹿と呼んだそうです。 またそこにイエスさまの恵みが益々溢れたのです。 祈っています。

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