聖めの意味


 イエスさまを私の救い主と信じた時、イエスさまからプレゼントを戴きます。 それは聖霊さまです。 聖書の約束によって戴きます。 聖霊は霊のことで見ることは出来ませんが、確かにおられるのです。 聖書では下のように言っています。

「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(ルカ2章25-26節)

 シメオンという人は、正しく敬虔な人で聖霊がとどまっていた、ある訳では宿していたとも書いていますが、それはイエスキリストを待ち望んでいるという信仰からです。 聖霊はイエスさまを信じた時に誰でも与えられます。 他にも聖霊を戴いていた方はきっといるでしょう。
 しかし、イエスさまを大事にしていなくては聖霊が自分の内にいて下さっても、一緒に生きる気持ちが無ければ死んだものと同じようなのものです。 それが正しい敬虔な人であったという事を聖書は伝えています。

 そこで正しい敬虔な人という意味が出てきます。 一般的に考えると道徳的で正しい道を歩んでいる人と思われるでしょうが、そこに行ってしまうと律法的になってしまうのです。 正しく歩むためにあれをしてはダメ、これをしなきゃダメというように人間的な解釈になりやすいのが人間です。 実際に2000年前のユダヤ人は、正しく道徳に生きようとして頑張ったのすが、イエスさまに出会っていても救い主なるイエス・キリストが分からなかったというか、見えなかったのです。 イエスさまは素晴らしいお方と分かっていたのに、イエスさまに従えないものがあったのです。 あまりにも人間的に考え、自分中心に物事を考えていたからです。 そこには霊の力が働けなかったのです。

 しかし、ほんの僅かな人、自分には力が無いけれどイエスさまについて生きたいと思った人だけが、聖霊の姿を見てそれに従って生きたのでした。 その結果、世界中にクリスチャンと呼ばれる聖霊様と共に生きる人たちが大勢生まれてきました。 なぜでしょうか?

 人がイエスさまの前に素直に生きる時、イエスさまのようになれない自分がいる事に気が付いて、イエス様やみ言葉に自分を差し出して歩む所に聖霊様が働かれるのです。 イエスさまは完全な人を求めてはおられないのです。 イエスキリストは完全な人が不要なのですから。

 神様の目から見て出来ない、不完全で弱い自分を助けようとイエスさまは待っておられるのです。

 もう一つ大事な事は、イエスさまが下さった聖霊様と一緒に生きる事と、それをいつも感じて生きる事です。 イエスさまから色々な助けを戴き、力を受けますが、それは自分が、またあなたが素晴らしいのではなくて、神さまが素晴らしいのです。 その力の源が聖霊様です。
 私たちは生きている間、イエスさまの思いを人に表すことが出来るのです。 聖書の中にある自分を生きるのです。 神さまとの交わりが出来る人が聖めに生きる人です。

 そうしないといつの間にか、自分自身が神様の座に座ってしまうからです。 たくさんの人がその誘惑に倒れていくのです。 その事が気付くように祈っています。

「御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
(1テモテ4章1節)

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